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各墓の調査成果

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 31-58)

第3章  前田真知堂A丘陵の調査成果

第4節  各墓の調査成果

 真知堂A丘陵の調査では、合計 31 基の遺構(墓)が確認され、墓に関係する蔵骨器や副葬品等の 遺物も得られている。これらの遺構と遺物の概要については、第3章の第 2 表と第 3 表に既に示し たとおりである。本節では、これらの墓の中から遺構と遺物が確認できた 8 基(33・49・51・55・

56・58・60・66 号墓)の報告を行う。なお、遺物の取り上げ番号については遺構図中に番号を図 示しており、本章で報告を行う以外の墓については、第 4 図と第 2 〜 3 表をもって報告とする。

(1)33 号墓 1)遺構(第 5 図)

 33 号墓は、丘陵北東側頂上付近の北斜面に構築する横穴式の掘込墓で、調査区内では最も標高の 高い場所に位置する(第 4 図)。墓の立地する標高は 107 〜 108 mである。周辺はやや傾斜のある 斜面で西側に尾根が延びており、その斜面の途中から南側に向けて墓室が掘り込まれている。墓は、

墓室天井が崩落して埋没した状態で見つかり、埋土を除去したところ墓室から蔵骨器が 1 点検出さ れた。墓室の平面形は縦長の略方形で、墓口から奥へ直線的に 1.3m 掘り込んでおり、棚は造られて いない。墓室平面形の類型は 1 類 c に分類される。墓室の幅は 0.64m で、天井は崩落により残存し ないため高さは不明である。墓口の方位は、北東(N36°E)を向く。

 蔵骨器の安置状況についてみると、屋門の向きは主軸よりやや東側を向いていたが、直立した状態 で出土したことから原位置を保持していると考えられた。墓室の規模や蔵骨器の数から個人墓と考え られる。造墓年代は不明であるが、蔵骨器の蓋裏で「光諸二■・・・」(光諸年間= 1875 〜 1908 年)

の銘書が確認されている。ただし、蔵骨器の身については、マンガン釉甕形の安里編年のⅡ式(1770

〜 1810 年頃)に分類されるため、銘書年代と蔵骨器の製作年代で矛盾する状況となっている。後世 の追葬による蓋の交換であろうか、身の再利用であったのか判然としない。

2)遺物(第 6 図)

  第 6 図 1 は、 マ ン ガ ン 釉 甕 形 の 蓋 で、 口 径 29.7cm、 内 径 22.7cm、 器 高 15.35cm、 体 部 高 12.1cm を測る。饅頭形の有孔つまみをもち、つまみ台はヘラ削りで成形され、つまみ台外縁部と体 部上方に2条の圏線を廻らせる。鍔の端部は丸く、かえりの成形はやや雑で 4mm を測る。内外面 に付着物が散見され、外体部の回転ヘラ削りの際に付着物を引きずる箇所がみられる。マンガン釉 を外面に薄く施し、特に鍔部で顕著となる。身(第 6 図 2)は、口径 27.1cm、胴径 34.2cm、器高 52.1cm、底面 21.2cm を測る。口縁部がほぼ直口し、口唇部は平坦となる。文様は、帯1以外は全 て突帯で、帯2と帯3の間に叉状工具によるくずれた波文が廻る。屋門は、貼り付けの瓦屋形で、頂 部に玉飾りは無いが、柱には円形花文の玉飾りが貼り付けられる。屋門の左右には同型の型づくりの 蓮華文を貼り付けし、茎は叉状工具で線刻される。外面は叩き成形をして箆で横削りされ、マンガン 釉が全面に施釉されるが口唇部は露胎する。

図版 1  着手前(左)と蔵骨器検出状況(右)

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第 5 図 33 号墓遺構図

3)銘書と人骨

 銘書では、女性(妻)と男性(父親)が確認できる。人骨の被葬者情報は、性別不明の成人1体と 推定されている。

〈蓋〉①辺野喜…/…/…/ 洗骨②…喜筑登之親雲上…③…綱同人妻④…■綱妻…⑤…巳⑥光緒二■〔拾ヵ〕…

〈身〉同前父親

(2)49 号墓 1)遺構(第 7 図)

 49 号墓は、丘陵南面のほぼ中央付近に位置する横穴式の掘込墓で、標高約 100 mに立地している

(第 4 図)。丘陵斜面部の機械掘削中に蔵骨器と遺構の壁面の一部が検出されたため精査したところ、

遺構の床面と奥壁、棚の一部であることが判明した。墓室の天井や壁面、入り口側が崩落しており遺 構の残存状況は良くないが、残存部から類推される墓室類型は 4 類 b と推測される。墓口方位は南

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第 6 図 33 号墓出土蔵骨器 図版 3 33 号墓出土蔵骨器

1 1- 裏

2 1

2

南西(N148°W)側を向くものと思われる。棚上で 2 点の蔵骨器が直立した状態で検出され、1点 はほぼ完形品であった。蔵骨器の種類はマンガン釉甕形で、2 点とも原位置を保持しているものと考 えられた。蔵骨器を複数個安置する状況から家族墓と考えられる。墓の造営年代は不明であるが、蔵 骨器の蓋裏の「昭和七年」(昭和 7 年= 1932 年)や「昭和十四年」(昭和 14 年= 1939 年)の洗骨 を記す銘書から、20 世紀前半には機能していたことが窺え、沖縄戦で埋没した可能性が高いと推測 された。

2)遺物(第 8 図)

 蔵骨器は、マンガン釉甕形で完形 1 点のほか、身の底部と蓋の縁部の破片で2個体分得られた。蓋(第 8 図 3)は、口径 32.4cm、内径 25.6cm、器高 16.1cm、体部高 11.6cm を測り、扁平形の有孔つま みをもち、つまみ台はヘラ削りで2段に成形する。体部には6〜8条の沈線を廻らせる。鍔の端部は

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第 7 図 49 号墓遺構図

丸く、かえりは無い。外体部では回転ヘラ削りの際に胎土中の微粒子を引きずる箇所が散見される。

釉は外面に薄く施す。

 身(第 8 図 4)は、口径 33.3cm、胴径 39.0cm、器高 69.9cm、底径 21.6cm を測り、外反口縁で 口唇部は平坦に成形される。肩部文様帯は沈線で葉文を描く。屋門は唐破風形の貼り付けで、玉飾り も貼り付けられる。横帯は全て沈線で、屋門左右の胴部文様も沈線で蓮華文が描かれている。釉は外 面に薄く施す。安里編年のⅥ式(1930 年代以降)の資料である。このほか、蔵骨器内から人骨とと もにプラスチック製の簪(長さ 10.1cm)が得られている(図版 6 − 5)。

3)銘書と人骨

 第 8 図 3 の蔵骨器の銘書と人骨についてみると、銘書では男性(二男知念蒲■)と女性(妻知念 図版 4 49 号墓遺構 上:墓の位置 左下:蔵骨器検出後 右下:完掘後

カマド)が確認された。人骨の被葬者情報では老年男性 1 体と性別不明成人1体と推定されており、

銘書と被葬者情報で概ね一致することが確認された。また、人骨については未成人 1 体を含む 5 体 分が確認され、既述した家族墓を裏付ける結果が得られている。

〈蓋〉昭和七年旧十一月廿七日 / 洗骨 / 二男 / 知念蒲■ / 妻 / 知念カマド / 昭和十四年旧十月十八日 / 洗骨ス

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第 8 図 49 号墓出土蔵骨器

図版 5 49 号墓出土蔵骨器と銘書 図版 6 簪

3- 銘書

3

4

5 3

4

(3)51 号墓 1)遺構(第 9 図)

 51 号墓は、丘陵北面のほぼ東側に位置する横穴式の掘込墓で、標高 102.5 〜 103 mに立地してい る(第 4 図)。当墓の直上、標高 103.5 〜 104 mには、方形の石灰岩製の石組遺構(39 号墓)が造 られていた。石組遺構は幅 1.25 m、奥行き 2.15 mで内側に面を持ち、表面の所々にモルタルが確 認された。外側には拳大石で石灰岩の裏込めが施され、底面には切石とニービ石が使用されている。

石組の奥には、墓室と推定される幅約 2 m、奥行き 0.9 m、高さ 1.2 mの空間があるが、蔵骨器は確 認されていない。石組遺構は、記録後に取り外して地山まで掘り下げた。その結果、墓室と推定され る箇所が、51 号墓の墓室奥壁の上部分であることが判明した。51 号墓は沖縄戦で埋没し、戦後、同 じ場所に 39 号墓を造墓したものと推測された。ところで、39 号墓の調査着手前、該墓の前面には コンクリートの家形墓が存在していた。年代は特定できないが、39 号墓は戦後早い段階で補修され、

後になってコンクリート家形墓を新造し、移転したものと考えられた。以下で 51 号墓について詳述 する。

 墓口の寸法は、幅約 0.6 mで高さは不明、羨道部の長さは 1.3 mを測り、墓口の方位は南(N170°W)

を向く。墓室の寸法は、幅 1.9 m、奥行き 2.37 m、高さ 2.12 mで、面積は 4.32㎡を測る。墓室類 型は 6 類 a(コ字状+階段状 1 段)に分類される。しかし、奥と手前で棚の奥行きを比べると、前者 の奥行きが 37cm で、後者は 70cm と約 2 倍の大きさとなる状況から、2 番棚の削平が推測されるため、

本来の棚形状は 5 類 a(コ字状+階段状 2 段)の可能性が高いと考えられた。天井は奥壁際の一部の み残存する。墓室及び墓前埋土からは、蔵骨器の破片(10 個体余)や人骨片が出土し、また、それ 以外にも手榴弾や銃弾などの戦争遺物も出土したため、戦時下の墓利用が確認された。

 墓の造営年代は不明であるが、蔵骨器の銘書では「光諸八年」(光諸 8 年= 1882 年)や「昭和十七年」

(昭和 17 年= 1942 年)が確認されることから、沖縄戦時に埋没したものと考えられる。

2)遺物

 蔵骨器はすべて破片出土で、接合を試みたが完形に至らないため、専用蔵骨器の図版等は省略した。

蔵骨器の種別及び個体数は、身がマンガン釉甕形 8 個体分のほか、転用蔵骨器 2 点、現代甕形 4 点で、

図版 7 51 号墓遺構 左:墓の位置 右上:39 号墓 右下:51 号墓の完掘状況

蓋がマンガン釉甕形 6 点、転用蔵骨器 2 点、現代甕形 3 点であった。マンガン釉甕形の身は、安里 編年のⅣ式(1850 〜 1890 年代)が 3 点、V 式(1900 〜 1920 年代)が 4 点、Ⅵ式(1930 年代 以降)が 1 点であった。転用蔵骨器の身(第 10 図 6・7)の器種は 2 点とも壺であった。第 10 図 6 は、

方言で「アンダガーミ」と称される褐色の釉が施された四耳壺である。各部の寸法は口径 11.2cm、

器高 25.8cm、底径 11.8cm を測る。第 10 図 7 は、口径 11.8cm、器高 32.8cm、底径 12.8cm を測 る沖縄産無釉陶器の壺である。頚部と肩部の境に 1 条、肩部に 2 条の沈圏線が施され、圏線間には判(窯 印)が彫られている。これらは日常品の雑器であり、戦時中に持ち込まれた可能性も否めないが、後 述する転用蓋とセット関係になる可能性が考えられたため転用蔵骨器として扱った。

 転用蔵骨器の蓋(第 11 図 8・9)は皿と鉢を使用しており、内面に銘書が墨書されている。銘 書は 2 点とも「嗣清子松金」と記されている。第 11 図 8 は、沖縄産施釉陶器の輪花皿で、口径 13.7cm、器高 3.8cm、底径 8.2cm を測り、内面に染付で山水文や圏線を描く。文様は 2 本を 1 組と する三重の圏線内の中央に山水文が描かれ、その外周を蛇の目釉剥ぎする。蛇の目の外周の二重圏線 内には縦位の線文を 7mm 幅で廻らす。口唇には鉄釉が施され、畳付は露胎となる。胎土は緻密で混 入物は見られず、質感は磁器に近く、内外面ともに細かい貫入が認められる。銘書は蛇の目釉剥ぎで 露胎となった部分に墨書される。第 11 図 9 は、沖縄産施釉陶器の灰釉鉢で口縁部から胴上部を欠く 資料である。底径は 8.4cm を測る。高台に紐通しの穿孔が 3 箇所あり、孔径は 7mm を測る。浸し 掛けで、内面胴部途中から外面胴下半部まで施釉する。

 墓室からは、上記以外にも碗、皿、花生け、蓋が出土している。第 12 図 10、11 は、型紙摺絵の

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第 9 図 51 号墓遺構図

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 31-58)

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